コスモス

 

コスモスとため池はどんな関係があるかわからないが祭りと称するのがはじまった

昨年は町の西にコスモスが田んぼや空き地に植わっていたが今年は東側だ

北のため池のまわりがきれいに草刈りがしてあると思った

道のまわりも草が刈ってあり近年にないことだと思っていた

駅に看板がありため池コスモス祭りとある

休耕田にコスモスを植えて祭りにしている

散歩に行ったら畑で作業している人が今日はやさしく挨拶をしてくれた

これもそのおかげである

いつもは冷たい、よそ者を疑うような視線であった

畑もきれいに耕し草もとってきちんと整備している

人が見るからだ

コスモスを植えるのは順番があるらしい

2,3年前は北の町で相当ひろい地域に一面にコスモスが植わっていた

花はとり放題で中には青いビニールシートを広げて食べたり飲んだりのピクニック気分であった

看板も掲げであった

その田んぼは長い間草刈もせずに放っておいた休耕田だったがきれいに草がかってあった

(許可もなく草刈をしていた)

役場か農協かの命令なら誰もしたがわなくてはならないらしい

その上は減反政策を命令する農林省だ

農林省の方針には逆らえないのだ

泣く子と地頭には勝てぬ、は昔のことわざだ

(守護、地頭の時代、=鎌倉、室町時代)

(年貢をとる地頭には勝てないと農民は言う、との意味だ)

今もこれは変わらないようだ

しいたけを作って出荷していた農民がせり市場を見学をした時は農民が見ているから高値で取引をするが翌日からだんだん値が下がって結局は元の低い値段になってしまうと言う

いつも農民はしいたげられる、と哲学者のようなことばを言っていた

戦時中は供出(実際は強制的に米をださせる)で米を国が農民から取り上げて米をつくる農民が食べるモノがなかった

江戸時代はとれた米の半分以上を武士にとられた農民は隠し田(だ)を山のなかに作ってその米で飢えをしのいだ

それがなければ生き延びられなかった

しかし戦時中はその米も見つかって統制違反でつかまって農民を罰した

戦後もその罪は消えなかった

→前科一犯?だろうか

今は逆に米余りでコスモスを植えて農民を困らせている
コスモスを植えると補償金はでるはずだが。

米の増産が必要だったのは戦後10年間だけだった

米以外の小麦とうもろこしの自由化や食料輸入が始まったのだ

小麦を作るより買ったほうが安くなって小麦を作る意欲がなくなった

学校の給食もパン食になった

パン食はアメリカの小麦輸出の作戦だ

さらに米の炊飯器でパンを作るようにしたがこれは主婦の抵抗にあった

違和感があるのだ

それほど米食文化は日本人に根付いている

戦後食べ物がない時に援助でとうもろこしがきたがまずかった

そのはずで動物の飼料用のとうもろこしだった

敗戦で45百万の人が海外から引き上げたが国内の食料生産では食べられなかった

海外からの食料輸入がなければ日本人は飢える、がアメリカではわからないのだ

(アメリカは世界一の食料生産国)

さらに遠洋漁業も禁止した

飢えでこれはすぐ認められた

戦後の南氷洋の捕鯨は日本人のセイメイ生命を支える大事業だった

捕鯨船の船団が帰ってきたときは大ニュースだった

鯨肉と水菜を入れたハリハリ鍋は家庭の一番のごちそうだったのだ

食料輸入と貿易がなければ食べていけないと骨身にしみた

米は今余っているが食料を粗末にして国が栄えるとは信じられない

食べ物がない時に外国をあてにできない、とわかっているはずだ

誰もただで食べ物を与える国はない

戦後、ララ物資(援助)がアメリカからきた

食料品だろうと思うが戦後日本が豊かになるとこの費用の請求があった

もらったと思っていたから問題になったがこれは返しと思う

さらにODAで援助する側にまわった

エチオピアで干ばつの被害があった時は歌手達が慈善公演をして助けた

ひもじい思いをしたからわかる、と言う歌手に賛同の声があがった

援助される側より援助する方にまわりたいものだ

紛争や災害で飢餓上をさまよっている人々が多くいる

世界中で食料がまだ十分にいきわたっていない

どこかに問題がある

田に花を植えていいとは思えない

解決策はどこにあるのだろうか

 

 

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